私の記憶力を担保するためのブログ

元々記憶力がいい訳じゃないけど子が生まれて記憶力に不安を覚えるよになったのでいろいろ記録しておく。

お母さんというよりは、一人の人間として息子と接してるという話

幼少期、母は完璧で自分の世界の中の絶対神みたいな存在…という人も多いのではないだろうか。

 

わかる。

 

母は自分よりどこか次元の高い存在だと勝手に思っていた。大人になると母の弱さと必死さも逆に強さもわかるようになる。まぁ、私の場合はめちゃくちゃ喧嘩もしてるので…だからこそわかりあえたところもあるのかなぁと(うちの母が弱音を吐けず一人で抱え込んで唐突にキレてくるタイプ)。

 

いざ自分が親になると、突然の重圧に驚く。昨日まで自分のことだけ考えてればよかったのに一人の人生を背負うことになるのだから。特に赤子の時期なんてほっとたら死にそうな弱々しい生き物を守り育てなきゃいけない。

そして、必死に赤子を生かすことに右往左往してるうちに、気づいたら親とはこうあるべきという無言の重圧を背負わされてる。

栄養満点のご飯をつくり、しっかりと食べさせ、早寝早起きさせ、時間があれば外に連れ出し遊ばせなさい。季節を感じさせなさい。着るものはコットン。毎日絵本を読み聞かせなさい。テレビばかりYouTubeばかり見せてはいけません。子どもの手本となりなさい。

 

 

あーあーあー。

聞きたくないでーす。

 

この世の中の親とはこうあるべきというレッテルはまるで小中高生のときのような規範を求められているようで、優等生とは程遠い私には無理だった。

 

私達は親である前に一人の人間である。そして子どももまた一人の人間である。お互いに気持ちよく楽しく笑顔で過ごせることが1番なのではないか。

 

ということを息子が3〜4歳の頃に思い始め、私は息子との接し方を変えた…というより元の自分に戻した。

 

息子の『保育園いきたくないな〜』に対しては『わかる〜ママも仕事行かないで一生布団の中にいたいもん』って言うし

息子の英会話教室の宿題は、教えると言うより一緒に学ぶというスタイルでやるし(現に私が知らない英単語が意外と出てきて面白い、とくに生き物の名前)

息子が大好きなLaQだって、本当に私はやり方1ミリもわからないので(そして興味もないから理解しようとも思ってない、夫曰くレゴより汎用性があり面白いとのこと)『こればかりは…ママは本当にできないから、やってるとこ見せて』って言うし

息子が謎のツボで大爆笑してることだって共感できなかったら一緒になって笑うとかしない。でも息子の感受性は大切にしたいから、特にそれについて触れない。『ママ、なんで笑わないの?』って聞かれたら『君とは笑いのツボが違うんよ。人は人によって面白いのポイントが違うんだよ』ってマジレスする。ただし、ウンコチンチンで笑ってるときは『それは下品だから、外で言うなよ』と真顔でマジレスする。

 

私が具合悪いとき、本当に元気がないとき、虚無のとき、それをちゃんと息子に伝えてる。一人の人間として、完璧ではない人間として。

 

もちろん、息子のことが大好きであることも毎日のように伝えてる。子育ては大変だし不自由になることもたくさんあるけど生きる元気と活力と笑顔、大きな幸せをくれるのもまた子育てなのだ。息子がいるだけで部屋がぱっと明るくなる(と同時に散らかる)息子がいなかった人生なんて考えられない。何よりも大事な宝物であることはこの先一生変わらない。

 

だからこそ母親も人間で色んな感情をもっていて、日々色々考え一日一日を生き抜いてる、ということか息子に伝わるといいなぁと思う。息子がどう受け取るかは制御できないけど、私にできることは伝えることだけだから。